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【城/徳川/天守】「徳川=白」といわれる理由 黒い天守と白い天守(2)[2018/05/16]

1虹◆onElYHqWJBVO:2018/05/16(水)09:30:20 ID:FbI()
【城/徳川/天守】「徳川=白」といわれる理由 黒い天守と白い天守(2)[2018/05/16]

白鷺(しらさぎ)城とも呼ばれる姫路城。白壁天守の代表例だ。1993(平成5)年に世界文化遺産に登録されている

<黒い天守と白い天守(1)から続く>

 豊臣秀吉が大坂城(大阪市)の初代天守を黒壁で仕上げていたのに対し、
 徳川幕府が1626(寛永3)年に完成させた2代目天守は白壁だったと考えられている。

 慶長期に徳川家康が築いたとみられる二条城(京都市)も、『洛中洛外図屛風』(財団法人林原美術館蔵)に描かれているのは壮麗な白壁の天守だ。
 関ケ原合戦で東軍にくみし家康の信頼を得ていた藤堂高虎が1608(慶長13)年頃に完成させた今治城(愛媛県今治市)の天守は、
 家康に献上する形で丹波亀山城(京都府亀岡市)に移築されたと伝わるのだが、明治初期に撮影された亀山城の古写真には、
 やはり白壁の天守が写っている。

 このように、徳川の城は白いという印象がある。家康の娘婿である池田輝政が1601(慶長6)年から築いた姫路城(兵庫県姫路市)も、
 天守の壁面は真っ白だ。



姫路城天守

 姫路城は、家康が覇権を握る決定打となった1600(慶長5)年の関ケ原合戦後
 、豊臣秀頼との決戦に備えて構築した城による包囲網のひとつと考えられている。
 豊臣大坂城とは対照的な白い姫路城の天守は、徳川政権の力を誇示し、
 豊臣恩顧の大名を牽制(けんせい)するシンボルとして威容を誇っていたのだろう。

 同じく大坂を包囲する城のひとつだったとみられる彦根城(滋賀県彦根市)も、やはり天守の壁面は白い。
 1604(慶長9)年から天下普請(幕府が全国の大名に請け負わせる築城工事)により築かれ、天守は1606(慶長11)年頃に完成した。

 包囲網の総仕上げと考えられる名古屋城(名古屋市)の天守もまた、壁面は真っ白である。
 名古屋城の築城開始は1610(慶長15)年、天守の完成は1612(慶長17)年頃。
 1615(慶長20)年に大坂夏の陣で徳川と豊臣の戦いに決着がついた後は、尾張徳川家の居城として栄華を誇った。
2虹◆onElYHqWJBVO :2018/05/16(水)09:30:40 ID:FbI()
彦根城天守。徳川四天王のひとりである井伊直政を初代とする彦根藩の城として、子の直継により築城開始され、幕末まで井伊家の居城となった



名古屋城は彦根城同様に天下普請で築かれた。天守は1945(昭和20)年5月に空襲で焼失し、1959(昭和34)年に再建された

 しかし、徳川の時代になって築かれた天守がすべて白壁ではないのは、前回の記事でも述べた通りだ。
 旧豊臣家臣は黒壁の天守を建造しており、徳川幕府に臣従したからといって必ず白壁にしなければならないルールはなかった。

 和歌山城(和歌山市)の天守も、その例だ。紀州徳川家の居城であり、名古屋城天守にそっくりな白壁の天守であるため、いかにも徳川の城というイメージだ。
 しかし、白壁になったのは1798(寛政10)年のこと。関ケ原合戦後に城主となった、旧豊臣家臣の浅野幸長が築いた天守は黒壁だった。

 徳川の城にも、黒壁の天守は存在する。たとえば、松山城(松山市)。現存する天守は1642(寛永19)年に松平定行が改築した三重天守が焼失後、
 1854(安政元)年に松平勝善によって再建されたものだ。徳川一族の城ですら、黒い天守を建てていた。
 
 http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2018051184451.html
 
 全文はソースで
3忍法帖【Lv=10,スカルゴン,34o】 ホムンクルス◆oN7dKohdLoRV :2018/05/16(水)12:16:40 ID:B5N
白鷺城、良いアングルだ美しい。

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【城/徳川/天守】「徳川=白」といわれる理由 黒い天守と白い天守(2)[2018/05/16]